新井家具ベッド館 & 東京ショールーム STAFF blog

新井家具ベッド館のスタッフブログです。東京ショールームの様子も更新します!!

M島の営業回顧録  その8

ごきげんようM島です。

 

関トシ商事の営業が大変なのは夏だけではありませんでした。

新入社員の私には走行10万キロを超えたトラックが与えられ

毎年真冬に3回もトラブルに巻き込まれました。

 

営業の途中、奈良県内と三重県に行く途中の2回も

エンジンが止まって動かなくなりました。

社員は迎えに来る事はなく、修理専用の自動車業社がくるのですが、

三重の途中では昼過ぎから9時間も待たされました。

エンジンがかからないから、一切暖房もありません。

当時は携帯電話もありません田舎道ですので、止まった場所から

公衆電話のあるところまで、4キロ近く歩きました。

途中たこ焼きを売っているワゴン車があったので、

食事と暖をとらせて、もらいましたが、動かないトラックに戻って、

4時間以上待ちました。

この2回目のエンジンストップのときに廃車になりました。

走行距離は20万キロを越えていました。

 

もう1回のトラブルは真冬に走行中橋の上でパーンと大きな音がなって

フロントガラスが全面割れた事です。

パチンコか何かで狙われてフロントガラスが割れたと思って警察を呼びましたが

現場検証したところ亀裂を見て何かに当たってわれた亀裂ではない。

外は寒く中は暖房で熱く温度差とフロントガラスの老朽化で割れたと言う事です。

本当に危険なので、車は老朽化する前に(動かなくなる前に)買い換えて欲しいものです。

 

こんな最悪の労働条件と低賃金ですので、転職を当然考えていたのですが、

当時は婚礼タンスが良く売れていて、私の担当地区の奈良、三重は荷出し(婚礼タンスを含む家具の先方への荷入れをするとき家具やトラックを飾る事)が派手で

女の人の婚礼と同じくらいの行事だったのです。

この時荷を出す側と入れる側の2箇所からご祝儀をいただきます。

その金額が名古屋以上に多い地域でした。(当時テレビドラマで名古屋嫁入り物語があり

荷出しのことも紹介していました。)平均3万円、最高額は7万円ありました。

M島の営業回顧録  その7

ごきげんようM島です。

 

アイビーベッドが倒産した。

これを聞いたのはアイビーベッド時代から苦楽を共にしてシOOOに転職した

3名で大阪の堺市にある、大型家具販売店の倉庫市(年2回ある)の販売応援の時でした。

 

長年御世話になり、一緒に働いてきた人も多く残っていましたので、何ともいえない気持ちになりました。

販売応援が終わり、3名で居酒屋に行ったのですが、みんなため息ばかりです。

飲んだ後、酒を抜くのに近くのスーパー銭湯に行きました。

そこで1人が滝の中の修行のように打たせ湯に頭からあたり、

思いっきり泣いていたのを今でも鮮明に覚えています。

 

彼はアイビーベッドに残った、お世話になった先輩から、アイビーベッドに残って

一緒に頑張ろうと熱心に誘われていたのですが、将来性を考えてシOOOに転職したのですが、その時先輩からうらぎりものと罵られたそうです。

その複雑な気持ちが打たせ湯にも負けない大粒の涙になりました。

 

私は実は働いていた会社が倒産したのはこの時2度目になります。

 

アイビーベッドに入る前には関トシ商事株式会社という会社に就業していました。

こちらは京都の家具総合問屋です。

私の担当は奈良県から三重県にかけての家具販売店に家具を卸す営業の仕事です。

働く環境は今考えると本当に悪かったと思います。

 

ハイエーストラックに自家配送で家具を運びながら営業をするスタイルです。

雨の日はビニールシートで家具を包み込みロープできっちりと固定して

走ります。大阪府内にはいくつものライバル問屋がありましたが、

ほとんどがライトバンで営業していました。(配達しなくてよい)

決定的に違うのは関トシ商事のハイエースにはクーラーが付いていないことです。

京都から奈良、三重県は当時高速道路もなく長距離をクーラーの無い夏は本当に

大変でした。

 

 

M島の営業回顧録 その6

ごきげんようM島です。

 

4月より順調に売上を伸ばして行き秋も深まった11月に業界を震撼させる事が

おこります。

 

関西ではコマーシャルも流していた大阪木材工芸という大手が倒産しました。

大阪市内、神戸市内、枚方市に3店舗も構え当時の大手家具店です。

百貨店に商品を納める卸業もしていました。

 

私の会社も契約書を締結していましたが、与信金額は200万円でした。

大阪木材工芸は大手ですので、支払い条件は半金半手、手形サイトは120日でした。

私の会社は危ないだろうと判断していたので、現金支配で契約しました。

売掛金は現金決済でも締め日から支払日まで1ヶ月(店によって違うが)日があきますので、

200万円の与信金額ですと月々の販売額は100万円以下(平均)となります。

3店舗の販売調整も大変でした。1店舗あたり月額33万円以内、高級ベッドのめーかーですので、3~4台しか販売できません。

展示の注文は断り、注文が多くて与信金額近くになると

売り越し商品は欠品中ですと納入可能日を支払日以降にするなど

大変な思いで営業していました。

 

私の会社の債権は200万円以下ですが、アイビーベッドと競って商品の導入や販売に力を入れていたのがシーリージャパンでした。

私の会社が消極的なのにこの2社は大量の商品を大阪木材工芸に販売していました。

展示を拡大して行って、売上の競争をしていたのです。

 

こちらの2社の支払い条件は半金半手、サイト120日です。

月平均500万円の売上ですと1,500万円の負債。

月平均1000万円の売上ですと3,000円の負債を抱え込みます。

この2社は月平均800万円~1200万円くらいの売上がありました。

 

そして数日後アイビーベッドが連鎖倒産するのです。

M島の営業回顧録  その5

ごきげんようM島です。

 

お得意先との契約書締結に毎日奔走していましたが、

取引金額の小さなお得意先はすぐに契約書の締結ができたのですが、

取引金額の大きなお得意先はなかなか契約書がとれません。

 

先方は代理店が無くなりメーカーから直販になるのだから、

当然掛け率や納入価格は下がるものと思っていました。

 

代理店には営業1名で担当して、月に1回大阪本社に行って商談

3ヶ月に1度各営業所を回るくらいですから、

経費がほとんどかかりません。

営業員、事務員を雇用して、配送センターやその人員

販売の応援やクレームの対応など、ものすごい経費がかかっていること

を一軒一軒説明して行き、何とか全得意先の契約書の締結にこぎつけました。

 

この時、契約締結と同時に各得意先には与信金額が与えられました。

(先方はこのことは全く知りません)

パパママストアなどは100万円の与信金額、

100万円単位で信用に応じて金額が決まります。

当時家具業界では与信などという言葉自体聞いた事が無く、

業界では画期的なことでした。

 

取引当初、まだ取引自体が多くないときは与信金額を気にしなくて

良かったのですが、取引がすすみ売上が好調になれば、なるほど

信金額の調整が難しくなります。

信金額を1円でもオーバーするとその店に対する商品の出荷が止まるように

なっていたのです。

 

お得意先は与信金額の事を知らないし、

万が一与信金額を超えると出荷がとまり、お得意先に迷惑がかかる。

だんだん、綱渡りのような営業がはじまります。

M島の営業回顧録 その4

ごきげんようM島です。

 

年が明けて、2月1日よりシOOO販売株式会社の発足です。

大阪の江坂に事務所を構え、アイビーベッドから6名の営業マンが転職していました。

シOOO㈱から販売会社の社長と大阪営業所長が赴任してきました。

そして、営業員と事務員と倉庫の人員を募集して、面接~採用。

4月1日の開業に向けてフル回転です。

 

アイビーベッドはシOOOの西日本の代理店でしたので、販売会社は

大阪、名古屋、広島、福岡、金沢に営業所を開設しました。

 

金沢営業所は一旦私が閉鎖しましたが、元居た金沢の所長以下

私を千度罵倒して叫び倒した営業員や事務員も採用されていました。

年に一度社員旅行(日帰りですが)が設けられていたのですが、

そのときに会うととてもばつの悪そうな顔をしていました。

 

私は当時の事は忘れて、また、同じ会社で働くのですから、

お互い頑張りましょうと声をかけました。

 

名古屋にはシOOO㈱より所長が赴任していますが、福岡、広島、金沢は

ほとんどアイビーベッドを辞めた人がそのまま販売会社に入られました。

 

スタートをするのに各お得意先と契約書を結ぶのですが、

なかなかすぐに契約を結ばないお得意先も多くて、

本当に苦労しました。

 

私はこの年よりシOOO販売株式会社に7,8年にわたり勤務して

毎年いろんなことを経験しながら、

営業を続けていくのです。

M島の営業回顧録 その3

ごきげんようM島です。

 

まだ、私が金沢営業所で残務整理をしているとき、

アイビーベッドの説明会がありました。

シOOOの代理店をやめて自社開発ベッドを販売していくという内容でした。

引き続きアイビーベッドの従業員として、ベッドの販売に従事してほしい。

との事でしたが、私は幹部に既に辞表を提出済で、金沢営業所をたたんだら

辞める事を伝えていました。

 

不安な顔の元部下や同僚の中間管理職にはまだ、この時点で

辞める事は伝えていませんでしたが、私は辞めるだろうと

みんな思っていたと思います。

今後のことをみんな話ししているのですが、私に話をする人があまりいなかったと記憶しています。

今では金沢で大変苦労していたので、相談している同僚もいますし、噂で私のことを理解していてくれていたと思います。

 

さて、再就職先を探そうと思っていたら、ベッドメーカーのシOOOが

直販をするので、是非来て欲しいとオファーを受けます。

アイビーベッドに入社以来シOOOを売り続けた実績と関西営業所での

勤務と引き続き中間管理職の役職で再就職する事に決めました。

 

会社名はシOOO株式会社ではなく、シOOO販売株式会社でした、

これは、実績が上がらなければ、会社を閉鎖しやすくする為と

本体の会社と待遇を区別するだろうという意図を感じましたが、

売上を作れば閉鎖する事も無く、待遇も改善するだろうと思い

全力で頑張りました。

 

この時、ある人が言った言葉を思い出します。

アイビーベッドに残るも地獄、シOOOに行っても地獄

他の仕事にかわるのはもっと地獄だよと。

 

そのうちの一つの地獄をえらんだ営業人生です。

M島の営業回顧録 その2

ごきげんようM島です。

 

アイビーベッドでの続きですが、インテルナきたむらが倒産後、私は金沢営業所に飛ばされました。  倒産前日に危機を報告して、何もないと帰ってきた上司は責任をとらないで、

私1人が責任を負うことになりました。

 

金沢営業所に所長として、単身赴任いたしましたが、このときは営業人生で一番つらい

時間を過ごす事になります。

私が赴任した日は営業員以下事務員も暖かく迎えて頂いた、、、と思っていましたが、

実は私の使命は営業所の廃止だったのです。

 

営業所の廃止を営業員と事務員に伝えると、<帰れ、何をしに来たのか、私たちの生活をどうしてくれるのか> 次々に罵倒の嵐が待っていました。

顔を合わすとそのことを繰り返し言われて、半ばノイローゼのようになり、

私は本社に辞意を報告して、この会社を去ろうと思いました。

 

数日してアイビーベッドの幹部が説明と私の説得に来ました。

この時、アイビーベッドがシOOOとの代理店契約を解消して、

独立してシOOO以外の商品を販売する会社になる事を聞かされました。

アイビーベッドは今大変な時期に来ている。

何とか営業所の廃止、退去をやり遂げて欲しいと。

 

営業所の廃止は日にちが決まっていましたので、

私はその日までに営業所の廃止、退去を成功すると言いました。

が、その時、この仕事を最後にアイビーベッド辞職しようと

決心してその日までに全力で任務を遂行しようと誓いました。

 

吹っ切れたように一生懸命仕事をしますが、

単身赴任先で酒の量が半端なく、増えていったのもこの頃です。

得意先は北陸から新潟までありましたので、(米どころは酒がうまい)

日本酒を浴びるように飲んでいました。

よく肝臓がもったなあと、今では思います。