新井家具ベッド館 & 東京ショールーム STAFF blog

新井家具ベッド館のスタッフブログです。東京ショールームの様子も更新します!!

M島の営業回顧録 その11

ごきげんようM島です。

 

先号では関トシ商事で一番売上があり、いい頃の慰安旅行の写真です。

社長を含み数名の方が他界されました。

懐かしい顔もあります。

家具業界に残っているのは私を含めて3名だけです。

 

来年に連絡の取れるメンバーだけでもいいから、新年会(飲み会)を開催するという話があります。 是非、私も出席したいと思います。

30年以上会っていない方がほとんどですので、写真片手に比較してきたいと思います。

 

もう一枚慰安旅行の写真をはり付けます。

本当にみんないいメンバーでした。(この頃からやめることは考えていましたが)

 

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M島の営業回顧録  その9

ごきげんようM島です。

 

ご祝儀7万円は一回だけでしたが(内容は前日の鏡台とタンスの荷飾りのときに1万円

荷物を出す側3万円入れる側3万円頂きました。)3万円平均毎週土、日、祝日の大安か

友引か先勝ちの日です。月5,6回は行っていました。

毎週水曜日の休みはゴルフに行っておりました。

 

関トシ商事に入って4年が過ぎた頃、辞めようと思うことが起きます。

 

居眠り運転で壁に激突してしますのです。

6月30日が休みで7月いっぱい休みが無かったのです。

遠方に営業に行っていたので、朝9時から普通の日で20時頃帰社。

この頃土曜日は毎週オールナイトセールがあったのです。

オールナイトセールとは夕方~店を開店して18時~21時までは3割引、

21時から23時は4割引、23時~午前1時までは半額と。

 

18時~23時はお客様の品定めの時間23時になるとプライスカードを

はがして、カウンターに持って行って注文すると言うスタイルです。

あの頃は本当に売れたのですよ。

台風が近づいている23時に店内はお客様で満員、熱気ムンムンで

クーラーがきかないくらい暑かった店舗もありました。

このセール2,3年はどこの家具店でも大変売れるセールになっていました。

 

毎週私の担当のどこかの店で開催され翌1時ですが、それから後片付けをして、

みんなでご飯を食べに行きます。午前3時くらいに帰宅する、本当にくたくたですが、

翌日曜日は早朝から奈良県三重県で荷出しに行くのです。休み無しで。

クーラーも無いトラックで。

ブラック企業や過労死も真っ青と言うくらい働きました。

 

忘れもしない7月31日の20時頃帰社途中で、明日8月1日は待望の休みだ、

と言うときに   居眠り運転で正面の壁に激突して起きました。

車の正面の破損と私自身怪我もしましたが、スピードも大分落ちていたと

思われますが、壁も国道の下の部分で凹みもなく、大事には至りませんでしたが、

人が歩いてなくてよかった、これ以上この仕事を続ければ大事故になりかねない

と 硬く辞める決心をしました。

M島の営業回顧録  その8

ごきげんようM島です。

 

関トシ商事の営業が大変なのは夏だけではありませんでした。

新入社員の私には走行10万キロを超えたトラックが与えられ

毎年真冬に3回もトラブルに巻き込まれました。

 

営業の途中、奈良県内と三重県に行く途中の2回も

エンジンが止まって動かなくなりました。

社員は迎えに来る事はなく、修理専用の自動車業社がくるのですが、

三重の途中では昼過ぎから9時間も待たされました。

エンジンがかからないから、一切暖房もありません。

当時は携帯電話もありません田舎道ですので、止まった場所から

公衆電話のあるところまで、4キロ近く歩きました。

途中たこ焼きを売っているワゴン車があったので、

食事と暖をとらせて、もらいましたが、動かないトラックに戻って、

4時間以上待ちました。

この2回目のエンジンストップのときに廃車になりました。

走行距離は20万キロを越えていました。

 

もう1回のトラブルは真冬に走行中橋の上でパーンと大きな音がなって

フロントガラスが全面割れた事です。

パチンコか何かで狙われてフロントガラスが割れたと思って警察を呼びましたが

現場検証したところ亀裂を見て何かに当たってわれた亀裂ではない。

外は寒く中は暖房で熱く温度差とフロントガラスの老朽化で割れたと言う事です。

本当に危険なので、車は老朽化する前に(動かなくなる前に)買い換えて欲しいものです。

 

こんな最悪の労働条件と低賃金ですので、転職を当然考えていたのですが、

当時は婚礼タンスが良く売れていて、私の担当地区の奈良、三重は荷出し(婚礼タンスを含む家具の先方への荷入れをするとき家具やトラックを飾る事)が派手で

女の人の婚礼と同じくらいの行事だったのです。

この時荷を出す側と入れる側の2箇所からご祝儀をいただきます。

その金額が名古屋以上に多い地域でした。(当時テレビドラマで名古屋嫁入り物語があり

荷出しのことも紹介していました。)平均3万円、最高額は7万円ありました。

M島の営業回顧録  その7

ごきげんようM島です。

 

アイビーベッドが倒産した。

これを聞いたのはアイビーベッド時代から苦楽を共にしてシOOOに転職した

3名で大阪の堺市にある、大型家具販売店の倉庫市(年2回ある)の販売応援の時でした。

 

長年御世話になり、一緒に働いてきた人も多く残っていましたので、何ともいえない気持ちになりました。

販売応援が終わり、3名で居酒屋に行ったのですが、みんなため息ばかりです。

飲んだ後、酒を抜くのに近くのスーパー銭湯に行きました。

そこで1人が滝の中の修行のように打たせ湯に頭からあたり、

思いっきり泣いていたのを今でも鮮明に覚えています。

 

彼はアイビーベッドに残った、お世話になった先輩から、アイビーベッドに残って

一緒に頑張ろうと熱心に誘われていたのですが、将来性を考えてシOOOに転職したのですが、その時先輩からうらぎりものと罵られたそうです。

その複雑な気持ちが打たせ湯にも負けない大粒の涙になりました。

 

私は実は働いていた会社が倒産したのはこの時2度目になります。

 

アイビーベッドに入る前には関トシ商事株式会社という会社に就業していました。

こちらは京都の家具総合問屋です。

私の担当は奈良県から三重県にかけての家具販売店に家具を卸す営業の仕事です。

働く環境は今考えると本当に悪かったと思います。

 

ハイエーストラックに自家配送で家具を運びながら営業をするスタイルです。

雨の日はビニールシートで家具を包み込みロープできっちりと固定して

走ります。大阪府内にはいくつものライバル問屋がありましたが、

ほとんどがライトバンで営業していました。(配達しなくてよい)

決定的に違うのは関トシ商事のハイエースにはクーラーが付いていないことです。

京都から奈良、三重県は当時高速道路もなく長距離をクーラーの無い夏は本当に

大変でした。

 

 

M島の営業回顧録 その6

ごきげんようM島です。

 

4月より順調に売上を伸ばして行き秋も深まった11月に業界を震撼させる事が

おこります。

 

関西ではコマーシャルも流していた大阪木材工芸という大手が倒産しました。

大阪市内、神戸市内、枚方市に3店舗も構え当時の大手家具店です。

百貨店に商品を納める卸業もしていました。

 

私の会社も契約書を締結していましたが、与信金額は200万円でした。

大阪木材工芸は大手ですので、支払い条件は半金半手、手形サイトは120日でした。

私の会社は危ないだろうと判断していたので、現金支配で契約しました。

売掛金は現金決済でも締め日から支払日まで1ヶ月(店によって違うが)日があきますので、

200万円の与信金額ですと月々の販売額は100万円以下(平均)となります。

3店舗の販売調整も大変でした。1店舗あたり月額33万円以内、高級ベッドのめーかーですので、3~4台しか販売できません。

展示の注文は断り、注文が多くて与信金額近くになると

売り越し商品は欠品中ですと納入可能日を支払日以降にするなど

大変な思いで営業していました。

 

私の会社の債権は200万円以下ですが、アイビーベッドと競って商品の導入や販売に力を入れていたのがシーリージャパンでした。

私の会社が消極的なのにこの2社は大量の商品を大阪木材工芸に販売していました。

展示を拡大して行って、売上の競争をしていたのです。

 

こちらの2社の支払い条件は半金半手、サイト120日です。

月平均500万円の売上ですと1,500万円の負債。

月平均1000万円の売上ですと3,000円の負債を抱え込みます。

この2社は月平均800万円~1200万円くらいの売上がありました。

 

そして数日後アイビーベッドが連鎖倒産するのです。

M島の営業回顧録  その5

ごきげんようM島です。

 

お得意先との契約書締結に毎日奔走していましたが、

取引金額の小さなお得意先はすぐに契約書の締結ができたのですが、

取引金額の大きなお得意先はなかなか契約書がとれません。

 

先方は代理店が無くなりメーカーから直販になるのだから、

当然掛け率や納入価格は下がるものと思っていました。

 

代理店には営業1名で担当して、月に1回大阪本社に行って商談

3ヶ月に1度各営業所を回るくらいですから、

経費がほとんどかかりません。

営業員、事務員を雇用して、配送センターやその人員

販売の応援やクレームの対応など、ものすごい経費がかかっていること

を一軒一軒説明して行き、何とか全得意先の契約書の締結にこぎつけました。

 

この時、契約締結と同時に各得意先には与信金額が与えられました。

(先方はこのことは全く知りません)

パパママストアなどは100万円の与信金額、

100万円単位で信用に応じて金額が決まります。

当時家具業界では与信などという言葉自体聞いた事が無く、

業界では画期的なことでした。

 

取引当初、まだ取引自体が多くないときは与信金額を気にしなくて

良かったのですが、取引がすすみ売上が好調になれば、なるほど

信金額の調整が難しくなります。

信金額を1円でもオーバーするとその店に対する商品の出荷が止まるように

なっていたのです。

 

お得意先は与信金額の事を知らないし、

万が一与信金額を超えると出荷がとまり、お得意先に迷惑がかかる。

だんだん、綱渡りのような営業がはじまります。