新井家具ベッド館 & 東京ショールーム STAFF blog

新井家具ベッド館のスタッフブログです。東京ショールームの様子も更新します!!

M島の営業回顧録  その34

ごきげんようM島です。

 

シーリージャパンの初出社前にビックリする事があり、

緊張もなく出勤できました。(笑

 

挨拶も終わり全国営業所とのテレビ電話会議が始まります。

 

東京本社の画面には社長の横に○松部長と○尾さんが専務として、

座られていて、その横に元シ○○○の谷○さんが部長として

座っていました、その他にも元シ○○○メンバーが。

 

この時、私が7月1日の今日初出勤する事を○藤社長はなぜ、知っているのだろうか?  少し不思議でしたが、この中にシ○○○のスパイというか、

情報を流している人がいるのだなあ、と思いました。

 

○尾専務と今でも情報を交わすことが出来る人も

シ○○○には残っていますので、情報戦も活発になります。

 

まず、最初に○尾専務が仕掛けます。

大型量販店Hの商品部にシーリージャパンの専務に就任した挨拶とともに、

シ○○○が大型量販店Nに○8,000円から最安値でポケットコイルを

販売させている事をリークするのです。

 

大型量販店Hの商品部からこのことの連絡を受け、

右往左往、会社中が大騒ぎになったと思います。

 

大型量販店Hのシ○○○のシングルサイズマットレスの最低価格は○5,000円からでしたので、九州に飛び、大型量販店Nに販売価格を

○5,000円からにして頂くようにお願いされました。

 

大型量販店Nに更なる改定と大型量販店Hにペナルティとして、

よりよい条件を提示しただろう事は想像ではございますが、

言うに及びません。

M島の営業回顧録 その33

ごきげんようM島です。

 

意思をかためた私はシーリージャパンの窓口で

熱心にお誘い頂いた、○松部長(当時)に会社の将来性と

私への期待を説明頂き転職をいたします。

 

退職届を提出いたしましたら、当時の上司が、なんで相談してくれなかったんだととても残念がっておられました。

人事異動の件は発表するまで、極秘にすることを命令されていましたので、

会社内では誰にも相談できませんでした。

 

送別会も盛大にして頂きましたけど、今後はライバル社で働くことに

なりますので、それは複雑な気持ちでした。

 

アイビーベッドからシ○○○に転職したときも、今回シーリージャパンに

転職したときもそうでしたが、ぎりぎりまで前の会社で働いて、

直ぐに次の会社に出社する事になります。

どちらの場合も2ヶ月近く有給休暇がありましたので、

個人的にはゆっくり休みを消化して、次の仕事にそなえたかったのですが、

行く先の会社の事情で一日も早く来ていただきたいとの事で、

慌しく初出社するのでした。

 

このシーリージャパンでの初出社の日にある出来事が起こります。

 

7月1日の暑い日でした、会社のビルの前に人影が、

私がビルに入る前に声をかけてきた人がいました。

シ○○○株式会社の社長○藤さんでした。

 

今日からシーリーに行くのか。

頑張れよ、、、、と言って頂いたのですが、今日からは敵なので、、、、

胸中はわかりませんが、今や大会社の社長と

初出社の日に最後の挨拶を交わせたことは、今振り返れば、

光栄なことだと思います。

M島の営業回顧録 その32

ごきげんようM島です。

 

シ○○○株式会社の社長の指名は、回りの人や私もビックリしましたが、

本人もビックリされたと思いますが、一番ビックリしたのが、

当時の○尾常務だったと思います。

 

犬猿の仲の部下だった人が突然、社長に就任するのです。

ビックリした後にいろいろ考えられて、アクションを起こして、この後すぐに退職されライバル会社のシーリージャパンの専務に就任されます。

 

この頃から私の周辺でも、人事異動が騒がしくなります。

○尾常務はアイビーベッド時代のシ○○○の担当をしていただいていたので、

本当によく知っている方です。

以前からシーリージャパンからも引き抜きのお話を頂いていたのですが、

丁重にお断り続けておりました。

 

そのときに、静岡営業所への異動を命じられました。

このときに、このことは一切もらす事を禁じられていましたので、

同僚などに相談も出来ず、いろいろ悩みました。

そのときに(三度目)シーリージャパンからお誘いを受けました。

 

関西営業所の所長をして頂きたいと。

条件もよく、自宅から通勤も出来る。

シ○○○で1度単身赴任すると、全国業績の悪いところの建て直しで

いろんなところに異動させられ、関西には戻れないだろうと考えました。

○藤社長は現在も社長を続けられているので、

多分そうなっていたと思います。

 

家族と相談して、そのときに単身で赴任するのは

よくないと思い、転職の意思を強く固めるのでした。

M島の営業回顧録 その31

ごきげんようM島です。

 

一気に勝負に出て

大型量販店N全店に一気に商品展開して、大型量販店NでNO.1の取引ベッドメーカーになるためです。

シ○○○が大型量販店Nに新規参入して、売上を伸ばすには、圧倒的なプライスリーダーになる必要がありました。

 

大型量販店Nの店頭で○○,000円の価格でシ○○○のポケットコイルマットレスが買える。

大型量販店Nの販売研修会には度々、商品仕入れの部長が出向いて説明会を繰り返し、

大型量販店Nは日本で一番安く○モンズを販売している企業です、と繰り返しました。

 

値引きの多い販売店には圧力をかけ、納入率をあげたりして、安く売らせないような

ことをしているのに、このときは率先して安く販売していたのです。

 

この一大決心と展示拡販と大型量販店N自体が西日本に店舗を出店していきましたので、

見る見るうちにシ○○○の売上は右肩上がりに上がっていきました。

 

シ○○○本社には親会社のニフ○から来られた社長と専務と

もともとシ○○○におられた、○尾常務がおられました。

販売会社の○藤社長はその3人に続く位置におられたのですが、

○尾常務とはライバル関係でとても仲が悪かったのです。

 

販売会社の○藤社長はもともとフランスベッドの長野県営業所の所長でした、

フランスベッドでは出世しても課長になるのが精一杯ですので、

シ○○○に転職されました。

シ○○○の長野営業所所長を経て、首都圏以外の地方営業所をまとめる、

地方部長に就任して実績を残し、西日本をアイビーベッドから、

シ○○○が直接販売することになり、西日本だけの販売会社を作り

販社の社長に就任されました。

 

そして、ニフ○から来られたシ○○○社長がニフ○の社長になられる時に

シ○○○の新社長に指名されたのが、○藤社長でした。

 

M島の営業回顧録 その30

ごきげんようM島です。

 

取引先も安定してきて、倒産などもなく、

順調に売上も推移して順風満帆になり、経営コンサルタントの指導もなくなりました。

 

特に残業もなく、働きやすい環境になったのですが、会社も大きな転換期が訪れます。

西日本のみの販売会社だった、シ○○○販売株式会社が本体の株式会社シ○○○に

統合され一つの会社になるのです。

 

そして、人事異動の4月を迎え、西日本の販売会社の責任者だった○藤社長が

なんと株式会社シ○○○本体の社長に大抜擢されるのです。

 

西日本の業績が好調で元アイビーベッド社員の頑張りや、

戦略もうまくはまりましたが、最大の功績は大手量販店Nへのシ○○○ベッドの導入でした。

関西地区でもばんばん、(西日本)テレビコマーシャルもしているところです。

 

当時のシ○○○株式会社で一番大きな取引のあったのが、○○ホの愛称の

大手量販店Hでしたが、一番売れるシングルサイズの最低価格5,5インチポケットコイル

マットレスの販売価格が4○,000円でしたが、大手量販店Nには○○,000円(15,5%引き)で

販売できる価格で納入したのです。

 

これはシ○○○販売会社の○藤社長と仕入れ責任者の購買の部長の2名だけの独断でした。

当然大手量販店Hには知られないように最善の注意を払って、実行したのです。

これは本社の社長以下重役は誰も知らない戦略でした。

 

このことが大手量販店Hの耳に入らなかったのは、

両チェーン店の微妙な店舗分布にあるのです。

大手量販店Hは関東中心で店舗出店をして、関西に数店舗のみ出店していますが、

兵庫県の東部地区にある、尼崎が一番西の店舗でした。

かたや大手量販店Nは九州中心で勢力を本州に伸ばして、兵庫県西部の加古川あたりで出店が一旦とまりましたので、同じテリトリーではなかったので、商品の価格バッティングが

なかったのです。

 

M島の営業回顧録 その29

ごきげんようM島です。

 

京阪家具工芸の社長とポップスファニチャーの社長とは

アイビーベッド時代に家具店招待旅行で韓国の済州島でゴルフを

ご一緒した事もございました。

 

両店共に事前振込みをお願いしておりましたが、両店ともに倒産しました。

 

ポップスファニチャーは弊社の取引がなくなり、

店内展示を売り越し商品がシーリージャパンの商品がほとんどになりました。

シーリーの商品が流通して、約2ヵ月後の20日最初の支払いがある、

前日の19日にポップスファニチャーは倒産するのです。

 

250万円~300万円くらいの債権があったと思いますが、

一度も集金することなく、倒産されました。

 

この頃までのシーリージャパンは営業の管理がずさんというか、

シOOOが販売店の経営が危ないから引いていったのをボランティアのごとく、

納品、展示してそして、集金もせず倒産とは本当に理解できません。

 

シーリージャパンはインテルナきたむらのときも大阪木材工芸のときも

倒産する寸前まで全力で商談、売り込み、納品、展示をする会社で、

アイビーベッドは倒産したのに、この会社は大丈夫かなあと

本当に不思議でした。

 

信金額は得意先の実力により、金額が決まり、それを守る事が

倒産による債権の未回収を防ぎ、会社の経営と利益を守る事になります。

 

与信がなければ目先の営業目標を何とかこなす為に危険を承知で

あぶない得意先と取引を拡大する。

最後には大変な苦労と減棒などの処分と来年には倒産したところの

売上予算が計上されるのです。

M島の営業回顧録 その28

ごきげんようM島です。

 

OOOタンスのヒット商品は特価商品ですので、30~50本一括倉庫入れで

在庫を持っていただきました。

先方の在庫と与信残額をにらみながら、お支払日の翌日に商品を納品するようにして、

結果与信を割る事は一度もありませんでした。(私が在職の間は)

 

OOOタンスの新ベッド担当は直ぐに主任になり、ベッドの売上が上がりだすと

係長、課長と出世していき、最終的に家具、ホームセンターの店長にまで

上り詰めたそうです。(近年早期退職されましたが、)

 

こういった、成功例もございますが、営業として辛いこともございました。

経営不振の得意先に対する対応も早く、当時京都のパルスプラザで催事をすれば、

2億~3億の売上をほこり、京都では一番の売上のあった、家具のサワダさんが

経営不振に陥り、規模縮小して再出発するというときに、与信金額0円

事前振込みでないと商品を納品できなくなりました。

 

家具のサワダの社長からは『病人から布団をはぎとるのか』と言われ

長いお付き合いでしたが、それ以来取引はなくなりましたが、

倒産はまぬがれ、長い間商売を続けられました。

 

アイビーベッド時代に取引があり、奈良県箕面市に店舗をもたれていた、京阪家具工芸も何度も掛売りでの取引要請がありましたが、与信金額が出ず、取引はありませんでしたが、

こちらは倒産しました。

 

東大阪にあった、ポップスファニチャーは、急激な経営不振から

掛売りから事前振込みに契約変更しました。

先方の社長様からは罵倒されましたが、

今後はシーリーを主力で販売する旨を伝えられました。