新井家具ベッド館 & 東京ショールーム STAFF blog

新井家具ベッド館のスタッフブログです。東京ショールームの様子も更新します!!

M島の営業回顧録 その18

ごきげんようM島です。

 

その後、表立って電話はかかりませんでしたが、O野部長が食事の時や離席しているときは

受注センターは電話をかけてくれました。

当時の受注センターの方々には本当に感謝しています。

O野部長が休みの日は頻繁にかかってきました。

O野部長の下で働く人は本当に可愛そうとまで言われておりました。

 

O野部長に電話番号を教えたとたん深夜でもお構い無しに電話がかかってきて

細かいスケジュールや部下の管理など突拍子もない事をいわれ、起こられる。

携帯電話は自分で購入して維持費も高いのに余計なストレスを抱えるくらいなら、

当然解約した方がましなのです。

 

当時の家具業界の営業マンでは携帯電話を持っている人がほとんどいなかったし

(私の後輩は同じように購入しました。)

同時期にシャープのシステム電子手帳も使っていましたので、

得意先では目立つ営業のスタイルをしていました。

 

追記でO野部長とのエピソードを披露いたします。

 

これはアイビーベッドの末期の頃ですが、

月末の販売応援の前日の会議前に当時専務は<明日は販売応援で頑張ってもらわなあかんから、今日の会議は早く切り上げて明日に備えて>と言われて帰られました。

その後9時前から始まった会議は延々と午前3時まで続きました。

 

その時はO野常務になられていて、1次長3課長で会議をしていたのでしたが、

次の日の販売応援1人は午後からお店に行って、1人は体調不良で午後から自宅に帰りました。私は催事でざわざわした中でめまいを起こして、1日我慢して、販売をしておりましたが、ほとんど売れなかったのを覚えています。

スパルタもいいですが、社員の体力を奪っては逆効果です。

 

また、この頃のO野常務は消化系が悪かったのか、唇の端が荒れて、白い色を

していましたが、当時の新人がO野常務はあわてて会社に来たので、

歯磨き粉がついていると言っていました。

M島の営業回顧録 その17

ごきげんようM島です。

 

名古屋から転勤されてきた、O野部長は今までにないタイプのひとでした。

事故の後この人の下では中途半端に復帰したら、無理をして、体が余計悪くなると思っていましたので、相手の保険会社が給与保証してくれる、最大期間までは体を治そうと思いました。

そのおかげでほぼ完璧に治りました。(20年くらいたってから後遺症がありましたが)

 

O野部長はスパルタ部長で根性と迫力で商品を売って来い、タイプの人でしたので、

生半可な体、体調では続かないのです。

月末に目標に数字が達しないときは時間に関係なく深夜まで、懇々と会議をする方でした。

 

当時の営業はポケットベルを持ちベルが鳴るたびに公衆電話によって会社と得意先に電話をするのですが、京都営業所のときは日本海まで営業に行くときがありましたので、

頻繁にポケットベルが鳴るので、電話ボックスのあるたびに車を止めて連絡していたら、

なかなか目的地につかない。  それを解消するのに携帯電話を自費で購入しました。

 

受注センターには電話番号を教えておりましたので、

得意先から電話や問い合わせがあれば、

直接携帯電話に用件と問い合わせ内容をかけてきましたので、指示をして、返答も会社から

お願いしたので、営業車を止めることなく、遠方の得意先まで、

時間通りに行けるようになりました。

 

受注センターにはO野部長には電話番号は教えないで欲しいとお願いしていましたが、

O野部長は携帯電話を持っているのを感づいて、番号を教えろと言われましたが、

私個人のものなので、教えられませんといいました。

 

O野部長は私が電話番号を教えたくないと言った事を激怒して

受注センターに電話をかけないように指示しました。

本当に大人気ない人だなあと思いました。

 

M島の営業回顧録 その16

ごきげんようM島です。

 

この大事故で京都東インターを降りてすぐの音羽病院に2ヶ月近く入院し

リハビリで家から片道1時間30分ほどかかるのですが、3ヵ月ほど通いました。

むち打ちの症状も酷いのですが、椅子に圧迫されて、腰の痛みがひきませんでした。

雨の日は首と腰の痛みが半端ない症状でした。

その後家の近くの病院に変えていただき、事故から仕事に復帰するのは

9ヶ月もあとのことになります。

 

復帰後1年足らずですが、またまた結構大きな衝突事故にあいます。

京都市内の交差点での出会い頭の事故で、私が交差点に侵入した瞬間

右手から乗用車が突っ込んできたのです。

瞬間私はアクセルを踏んだのですが、これが偶然に良い方向に向きました。

このときも私はトヨタハイエースのワンボックスに乗っていましたが、

私がブレーキをかけて減速していたら、運転席側のドアに当たってしまうと

私の体に車が突っ込む形になるのですが、アクセルを踏んだおかげで

車は前進して、ワンボックスの右側面中央やや後ろ付近に乗用車が激突したのです。

私のワンボックスは転倒こそしなかったのですが、向きが反転していました。

 

私はシートベルトをしていましたので、体は大丈夫でしたが、

衝突の瞬間首が右に曲がり頭部の右上部がドアの上部に当たり

首の右側がむち打ちのような症状になったのですが、9ヶ月も休んでいたので

入院とかはしないで通院のみ対応しました。

通常のムチ打ちとは違い首の右側のムチ打ちの症状は1週間程で引いていきました。

 

今回の事故では私にも過失があり、長期に休んでいた後だったので、

休まず頑張りましたが、ブレーキを踏んでいたら、

最低入院以上の事故になっていたと思います。

 

アイビーベッドのこの頃の私の上司は当時O野部長という方が名古屋から転勤されてきまして、先の事故が起きて半年間はいつまで入院するのか、いつ仕事復帰すのか、体のことより、早く仕事に戻れと本当にうるさかったのを覚えています。

 

その後の事故で会社に迷惑をかけられないとの意識もありました。

 

M島の営業回顧録 その15

ごきげんようM島です。

 

アイビーベッドで2年ちかく大阪南部の担当をして、実績を積み、次に

京都営業所の所長になりました。(所長と言っても部下は1名だけですが)

この所長時代に大変大きな事故に遭います。

 

滋賀県から京都営業所に帰る途中、名神高速道路大津トンネルの中で

10トン車にノンブレーキで

 

アイビーベッドで2年ちかく大阪南部の担当をして、実績を積み、次に

京都営業所の所長になりました。(所長と言っても部下は1名だけですが)

この所長時代に大変大きな事故に遭います。

 

滋賀県から京都営業所に帰る途中、名神高速道路大津トンネルの中で

10トン車に居眠り運転でノンブレーキで後方から、追突されました。

トンネル内で渋滞が発生してきて、ブレーキをかけ減速したところに追突されました。

バーンという衝突音のあと、私はブレーキを全力でかけましたが、前方の車のテールランプが、目前まで迫ってきました。

 

私が九死に一生をえたのは、いろんな要素がございました。

京都営業所にはハイエースのワンボックスと軽自動車があったのですが、

軽自動車を常用しているのですが、この日は得意先に取替えのパーツがあり

引取る為にワンボックスに乗って行ったのです。

 

警察の事情聴取のときに聞いたのですが、通常このような場合、軽自動車ですと

10トン車は軽自動車の上になり、ペシャンコになる例が多いとの事です。

また、ワンボックスの場合は前方の車とのサンドイッチになり、大事故になるばあいですが、

私は高速道路で車間距離を長めにとっているのですが、このおかげで前方の車に

追突する直前に止まれたこと。

 

あとワンボックスなので、当たった瞬間に大きな音がして、10トン車の運転手の目が覚めて、あわててブレーキを踏んでくれたことです。

 

この衝撃でワンボックスの後ろはペシャンコになり、全体の長さは3分の2くらいの大きさになっていました。

 

M島の営業回顧録 その14

ごきげんようM島です。

 

塩化ビニールの商品も将来的に不安もありましたし、

ベッドは必ず需要が高まるのとアイビーベッドはシOOOというブランド品の

西日本専売店なので、独占してそのブランドを販売できる強みがありました。

私が関トシ商事の販売で婚礼の荷出しのお手伝いをするのは、お手伝いをする事によって、弊社の商品を買ってもらうというギブアンドテイク営業をしていたのです。

大阪には関トシ商事より大きな問屋がたくさんありました。大きな問屋は一括でたくさんの商品を仕入れるので、同じ商品とブランドを扱っていましたが、価格が安いのです。

私の行っていた奈良県ではフOOという枚方市の大きな家具卸商社のミOさんという方(現在も頑張って会社の重役で活躍されています。)が、安い価格で得意先に商品を納入されて、相当苦戦していました。 私は人員の少ない店に荷出しの手伝いと引き換えに商品を買ってもらう営業をしていたのです。祝儀はあとからついてきた物でした。

そのときに競合する商品を扱う小さな問屋は大きな問屋に売上をとられてしまう。

独占販売できる商品、オリジナルな商品の開発が必要だとおもい知らされるのでした。

 

私はシOOOのブランド力とベッドの普及率の向上が有望だと思いアイビーベッドに

転職しました。

 

もう一方の候補だった、アート50は現在全国にありましたが、6年以上前に

すべて廃業されました。  親会社のユーアイ社は売上を当時の10分の1以下に

減らして会社も相当スリム化して、社名を変更して、再出発されました。

 

アイビーベッドに転職して最初の担当が大阪南部でメイン店が堺市の大型家具店でした。

アイビーベッドが倒産したときに販売応援に行っていたお店です。

土、日、祝日はこちらの店に張り付いて販売応援をして、ベッドの販売をするのですが、

こちらのお店は玄関でついたお客様を帰られるまで接客して全ての家具を売らなければならないのですが、ベッドメーカーはベッドだけ、タンスメーカーはタンスだけの

知識しかないので、自社取扱商品以外があたることが多いので

みなさん苦労されていました。

私は総合問屋におりましたので、ベッド以外の販売もこなして

大変重宝されました。

先方の部長以下、次長課長に可愛がられアイビーベッドの商品を売ってもらい

メインの得意先の中ではベッドメーカーでは売上が一番でした。

 

M島の営業回顧録 その13

ごきげんようM島です。

 

だんだん、家具店の収益のメイン商品である婚礼タンスがだんだん売れなくなりました。

この頃から住宅やマンションににクローゼットが付きはじめタンス自体が不要に

なっていくからです。のちのち下駄箱や食器棚まで、住宅に設置されていわゆる

箱物が売れない時代がきます。

 

箱物に対して、脚物(ソファ、ベッド、ダイニングセット)は

住宅メーカーがセットして販売されないので、

今後は脚物を扱う会社は伸びるのではないかと漠然と考え出します。

 

話は戻りますが、アイビーベッドの京滋地区の責任者が

腰が悪く手術すると言う事で、お見舞いに行ったときに、

自分はこの会社を辞めて田舎に帰るので、欠員がでるので、

会社に入らないか。

と勧誘を受けます。

 

アイビーベッドの勧誘を受けてから1週間後

関トシ商事の営業部長から食事のお誘いを受けます。

営業部長は独立してユOOO社のオリジナル商品を販売する代理店アート50京都を

設立するので、是非来て欲しいと。

食事の後、関トシ商事のビルの前に車を止めて

<このビルの半分はわしが、建てたようなもんや>と考え深くつぶやきました。

<ユOOO社は塩ビ(塩化ビニール)で日本一の会社や、日本一と言う事はこれから、

無限に伸びる会社だぞ。> この頃関トシ商事は業績不振で年々売上を落としていました。

厚遇するから、良く考えてほしいとの事でした。

 

厚遇すると言うだけあってアート50はアイビーベッドの1,5倍の給与でした。

 

条件はいいのですが、塩化ビニール商品が廃棄の問題などで、今後も

売上を伸ばす事はできるのか。ベッドは普及率が上がると思っていましたし、

売上が伸びれば、給料も自然に上がっていく。

アート50は少人数の会社ですし、最初給料は多いのですが、

昇給はほとんどないだろうと思っていました。

 

M島の営業回顧録 その12

ごきげんようM島です。

 

関トシ商事をやめるとは決めましたが、その後3年ほど転職を考えてはいましたが、

なかなか、いい転職先もなく、時は過ぎていきました。

 

その3年間で業界の状況も変わっていきます。

毎年盛況だった、オールナイトセールも年々売上が悪くなり、

この頃にはチラシをとセールをやめる小売店もありました。

もともとセールの1週間前にプライスカードを書きかえるのです。

通常の特価価格1,6~1,7倍に価格を上げるのです。

4割引で普通の価格、半額で少し安くなる程度ですので、

消費者の方もだんだんわかってきたのだと思います。

 

ベッドはメーカー色が強いので定価や希望小売価格が安定していますが、

その他有名ではない家具メーカーの定価は市場価格に関係なく勝手につけ放題で

半額で販売しても小売店が十分利益を取れる商品がたくさんございます。

関西の方は定価からいくら安くなったこと自体を自慢されますが、

その商品をいくらで買えたか、と言う事が大事です。

今はインターネットが普及しておりますので、同等商品がいくらで売っている、

量販店のチラシ価格はいくらだとすぐに調べられます。

家具の定価には惑わされないでください。

 

この頃にはチラシに売れ筋の商品が掲載され、価格の競争が始まります。

 

婚礼タンス3点セットが100万円以上で普通に売れた時代から

3点セットで49万8千円ものが広告に掲載され、

次に3点セット29万8千円、それから2点セット19万8千円と

どんどん安くなっていくのです。